3.17.2011

日常に戻るということ

こんな時になんですが、、まず記録のためにも少し自分のことを書きます(かなり長くなります)。

私は16年前に阪神大震災が起こった時、兵庫県の西宮市に住んでいました。
大阪で短大を卒業して1年目、そのまま就職して関西に居座り、西宮市のアパートに一人暮らしをしていました。

地震が起こった時、爆発にあったような感じで、実際何がなんだか分かりませんでした。
部屋の中はぐちゃぐちゃで、建物自体が傾いているので、このままこの中にいたのでは生き埋めになる、その焦りで着の身着のまま何も持たずに廊下に飛び出しました。

アパートは○○マンションと言う名前が付いてる通り、かなり大きな団地のような建物で、4棟が囲むようにつながっている造りで、一階はロビーと駐車場と小さな店舗がいくつかありました。とにかく、古かったのは確かです。
外側に付いてる階段はもうつぶれていて使えなかったので、中側からロービーを抜けて出るしかなかったのですが、一階は半分くらい二階が落ちてきてる 状態でした。

まだ21歳だった自分はほんとにバカで(というかこの年齢だったら普通考えられるはず)、1月だというのに上着も着ず、靴下もはかず、財布なども一切持たずに飛び出したので、あんなに住人がいる建物なのに、自分がほぼ最初の出てきた人間でした。

でもそれだけ本当にパニックだったのです。ひとりだったのでどうしていいか分からず。
崩れ落ちたンクリートの破片だらけで、そこら中ホコリでよく見えない、 屋上にあった水のタンクから流れ出した水がジャージャーと上から落ちてきていた音を今でも覚えています。
そう、眼鏡もコンタクトも探しきれずに出てしまったので、視界はさらに悪く、もっと不安な思いをすることになってしまいました。

でもそこで、最初に見つけた人がいました。このお兄さんは、瓦礫だらけの階段を降りるのを手伝ってくれ、出口に導いてくれて、さらには自分の着ていたジャケットを私に着せてくれたんです。自分だって薄着だったのに。。。
それまでにも私の出会った関西人って、ほんとに面倒見のいい人が多かったんですが、このときはほんとに心の底から感謝しました。
それに怖くて不安でたまらなかったけど、一方では、「ここでひとりで死ぬわけにはいかない」と思ってる自分がいたのほ覚えています。

それから駐車場にいったん住民は集まり、全員が出てくるのをただ待ちました。みな呆然としてどうしていいかも分からず。男性たちが、上に取り残されているおばあさんを救出するのに助けがいると呼びかけているのですが、小柄な女の私じゃ到底助けにはならないし、、、まわりでも、実際なかなか立ち上がれる人がいませんでした。

結局、このアパートに住民は全員無事だったそうで、そのあと近くの学校の体育館にみな避難しました。
辺りはまだ暗く、あちこちから火の手が上がっていました。戦争でも始まったかのような光景でした。この大きいアパートがこんなになったくらいだし、もう世の中は終わりに近いような気もしました。

歩いている時に、少し年上の一人暮らしのお姉さんに出会って、しばらく一緒に行動しました。このパニックの最中、話し相手がいたのでほんとに心強かった。
そして彼女は、コンビニの中から靴下を私のためにもらってきてくれました。散乱していた店内で、お店の人もいいから持っていきなさいと言ってくれたそうです。

体育館の中でも、余震が続いていました。トイレも使えた状態ではありませんでした。
当時は携帯はまだほとんど持ってる人がいなかったので、公衆電話に長い列が出来ました。近場とはつながりにくいけど遠距離の方がつながるという状況だったので、鹿児島の実家の両親と話ができて、そのまま同じ西宮に住む親戚の家に向かいなさい、ということになりました。

避難所の体育館には、それこそ2時間ぐらいしか居なかったと思います。自分はここに居ても仕方がない、住むところはもうない、邪魔になるだけだ。帰るところがあるのだから帰らなくては、という結論になり、避難所をあとにしました。
その時、自分はこれからどうすればよいのかがハッキリと分かっている、でも避難所でただ余震に怯えながら待っている地域の人たちはこれから一体どうなるのか、、、私は後ろ髪を引かれる思いでした。

移動するなら、自分の所持品を取りにいかなければならず、結局出会ったお姉さんと一緒にアパートに戻り、部屋に入る決心をしました。
あとで赤い札を付けられた(完全に崩壊の印)建物、入るなら覚悟してという感じで戻ってきている人も居ましたが、余震がくれば崩れる可能性は大、ガスも漏れている匂いもしました。

瓦礫の上を小走りに急ぎ、必需品だけを持って無事にまた出られました。床も壁も斜めなっていて危険で、こんなに怖い思いをしたのは初めてのことだったと思います。

行き方は何となくしか分からなかったけど、5キロぐらい離れた親戚の家に向かってただ歩きました。
途中、崩壊した家の中に取り残された人を助ける作業をしているところを、何件か通り過ぎました。まだ救急車などは見かけなかったように覚えています。名前を叫ぶ声がただ響いていました。

親戚のおばちゃんの家は、ニュースでもよく目にしたあの高速道路が横倒しになったところの近く。被害は少なかったのですが、停電か断水などはあったので、そこで2日くらい寝泊まりしてたあと、おばちゃんたちも一緒に大阪市の方の親戚のうちに移動しました。

大阪に電車で出た時、意外と街がいつも通りに機能していたので、すごくギャップを感じたのを覚えています。
被災者は辛い思いをしていても、その外では人々の通常の暮らしがあって、空気は重い感じがするけれど、中には笑っている人もいる。この人たちを責める理由は何もないんだけど、この不公平さはなんだろうというような。。。

自分のアパートに残してきた所持品、一人暮らしを始めたばかりでそろえたばかりの自分の持ち物、写真アルバムなど、どうしても取りに戻るんだと言う自分がいたのですが、おばちゃんに諦めなきゃと言われ、 悔しくて悲しくて涙が出たのを覚えています。

そして結局、地震から数日後、私は空港に向かい鹿児島へ飛んで帰りました。
帰ってからはただ被災地の様子を見ながら少し落ち着いた頃、何日あとだったかは覚えていませんが、結局両親と一緒に車で片道12時間かけて、部屋に残してきたものを取りに戻りました。

本当は立ち入り禁止のアパートに父親と入って、大きな物も、ロープを使って父親が上手く窓からおろしてくれました。
ワゴン車に積めるだけ載せて(一人暮らしなのに持ち物は多かったのです)、冷蔵庫などの大きい物は、”使ってください”の張り紙をして置いてきました。
これくらいしか地域の人のためになることは出来なかったわけですが、復旧作業の邪魔にならないように、そのまま両親は車でフェリーにのって帰り、自分は会社を辞める手続きなどを終わらせてから帰りました。


長くなりましたが、ここ数日間、「あの時はこうだったな」と詳しく思い出さずにいられなかったので、書いて記録しておくことにしました。

ただ私は、中でも最も運のいい被災者だったことは確かです。怪我もなく、帰るところがあって、このあと何も心配なしにまた暮らせたのですから。

それに今思えば、若かったし自分のことしか考えていなかったですね。自分のことで精一杯だったともいえるけど、被災地のために自分に出来ることがあるか?とあまり考えることもなかった。。。

それから数ヶ月もしないうちに、一からまた始めたいという気持ちだったので、以前からいつかは行きたいと望んでいた語学留学をすることに決めてアメリカに渡り、すぐにそこで今の旦那となる人に出会ったわけです。
地震がなかったら今の人生はまったく違っていました。大阪にずっと住んでいたかも知れません。今ここには居ないし、この子供たちだって存在しなかった。そう思うと運命は不思議です。


なんだか話はそれましたが、
どうあがいても、被災地から離れている者には何もできません。億単位の寄付ができる大富豪でない限り、直接、本当に役に立つということはできません。

毎日ニュースばかり見ていても、日が経つにつれ、特に子供は精神的なダメージを受けやすくなるといいます。
うちの上のふたり(12と7)はもう大きいからと、この際、自然の怖さ、突然やってくる災難、辛い思いをしている人が世の中には大勢居ること、を実感してもらおうと映像など見せていたけど。。。2歳にならない下の子は、いつもはテレビをあまり見ない母親が不安そうに何かに見入ってるので、どうしたんだろうと思ってるに違いありません。
さらに、「ちょっと待って、今大事なところやってるんだから〜」なんてあしらってしまう始末。
これではいけない、私たちには私たちの暮らしがあって、それぞれの責任があるのだから、そっちをちゃんとやっていかないと。。。

ニュースもニュースで、被災地のようすを伝える映像も、視聴者を釘付けにする、だんだんとエンターテイメント化するような傾向にもあって。
発電所の関係者の会見では、記者からひっきりなしに責められて、また大混乱している。
国民を納得させられなくても、できることを今は必死にやっ てくれているのに、協力してやっていかなければいけない時に、こんな見苦しいもの放送してる場合なのか。。。
報道にも疑問がわいてきます。


被災者の皆さんのことを考えると、もちろん楽しいブログを書く気にもならないし、書いたらそれもはっきりいって不謹慎です。ブログを書いている人は今みんな同じ思いだと思います。
今日こんなもの作って食べましたとか、家のリフォームがこんだけ進みましたとか、、、食糧は不足し、長年住んだ家も一瞬にしてなくなってしまった人が大勢いるというのに。。。

でもだからといって、いつまでもこうしている訳にはいかないですよ、とあるブロガーさんが書いていました。
確かにそうです、生かされている者は、毎日を有意義に楽しく生きなければいけません。子供たちに笑顔がないといけません。

自分たちの身にも、いつ何が起こるかは分からない、突然大切な人が目の前から消えてしまうことも、ふっと自分の人生が終わってしまうことも、ないとは言えないです。
こう大きな災害ばかり続くと、何事もなく平穏に人生を送れる人って、実はほんとにごく僅かなのではと思ってしまいます。

世の中は、、、
いつも災害があり、戦争があり、餓死する人も、病気で苦しんでいる人も大勢いて、一方では、何でも好きなことができて苦労もなく、楽しい毎日を送っている人間がいて。。。いつも絶えることなく”ギャップ”が存在している。その事実も受け止めなくては。

生かされている者は、その人生をムダにしてはいけない。生きられなかった者の分まで生きなければいけない。そう実感しています。そして、いろんなところで人に助けられていることに感謝しています。


ブログも自分の生活の一部として続けると決めたことだし、これからまたぼちぼちと普通にアップしていくことにしますね(今日はめちゃくちゃ長くなってすみません〜)。



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2 comments:

  1. 阪神大震災を経験したみすずさんだけに、
    今回の被災者の気持ちも痛いほどわかるんだよね。。。

    私もほんと同じこと思ってた。
    冷たく感じるかもしれないけど、
    私達にも生活はあるわけで、
    生きていかなきゃいけないわけで。。。


    みすずさんのブログ楽しみにしてます。

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  2. えりこさん、
    楽しみにしてくれてありがとう〜。

    ずっと引きずってると、なんか精神的によくないよね。
    天気もいいし、そろそろ公園でも行こう!

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